法と医の相克

法と医の相克

理事長の中村嘉孝です。

検察が大変なようですが、証拠の改ざんはともかくとして、法律家のいう「法の正義」というものは、私たちのイメージする「正義」とは少し違っているようです。

法学概論の最初には、日本の「盟神探湯(くがたち)」やアフリカの「ワニ裁判」の話などが出てきます。

熱湯の中の石を火傷せずに拾うことができれば無実というのが「盟神探湯」で、容疑者を木にくくりつけてワニに食べられなければ無実というのが「ワニ裁判」です。

このように、なんらかの形で神意を得て行う裁判は「神明裁判」とよばれ、中世まで世界中で同様のことが行われてきました。当然、そのような事を否定するのが法学だと思われるでしょうが、実は違うのです。
むしろ、法の正義の本質はそこにある、と法学者はいうのです。

現代の刑事裁判は証拠主義だといっても、当たり前ですが100%確実な証拠などあり得ません。
あくまで「合理的な疑いが残らない」という程度の心証によって有罪とするほか仕方ないわけです。

法の根本的な役割は、社会秩序の維持であり、そのためには、誰かが何らかの方法で白黒をつけなければならない。そうすると、つまり、実際に正しいかどうかよりも、正しいかどうかを決める手続きが正しく行われているかどいうかの方が大事、ということになります。
実体的正義よりも手続的正義、これが法律家のいう「法の正義」だと、私は理解しています。

このような考え方は、医療の世界には馴染みにくいものがあります。

「診断はついたが患者は死んだ」という言い方があるくらいで、カルテが完璧に記載され、手順を踏んだ正しい診断がなされていても、患者にとっては病気が治るかどうかが、全てです。
しかし、法の言説が医療の中に入りこむにつれて、手続きの重要性が強調されるようになっています。
臨床とは、文字通りベッドサイドにいることのはずですが、実際の臨床は、ますます文書の作成や各種の手続きの確認作業に追われるようになってきています。

納得がいかなくても、「医療は社会の一部で、法の支配の下にある」といわれればそれまでですし、自動車免許の講習のように、「違反したら、民事、刑事、行政で罰せられますよ」と脅かされたら仕方ありません。